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Kamata apartment

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「環境」としての躯体

 

家は「働く」場所にもなり、オフィスは「暮らす」場所を取り込むようにもなり、もともとのだれかが決めた空間の「用途」から解放され、人間の暮らしは大きく変わった。自ら居すわりたい場所を選び取り、自由に住み移り、自分らしい「暮らす」と「働く」のバランスで、居住者の自らが「暮らし方」を創造していける時代になった。多様化していく現代の暮らし、主体性と創造性をもったこの「新しい住人」のために、これからの「住まいの原型」を見つけ出したい。

蒲田駅周辺のアーケード街の一角。敷地は、ビルに挟まれた隙間で、わずかな接道部分も、片側が商業色の強いアーケード通り、もう片側が交通量の多いバス通りに面している。人が暮らす場所としては、あまりにも雑多な都市環境ではあるが、どこに住みたいかを自ら選び取っていくその「新しい住人」にとって、魅力的な場所とは人それぞれ多様にあり、それはけっして豊かな自然環境の中にだけあるとは限らない。この都市の雑多ささえもポジティブにとらえ、野性的に場を住みこなしていきたい、そう考える人もいるはずだ。そこで、建築は、周囲に閉じるのではなく、逞しく開くことにした。敷地いっぱいに建物を配置しつつ、ビルの隙間を「光庭」ととらえ、開放的なRCラーメンフレームの構造によって、隣地の外壁まで伸びやかに広がるような住空間とした。このラーメンフレームの断面計画は、二面接道のそれぞれ異なる与条件により複雑化していった。バス通り側は経済的でコンパクトな階高設定、一方、アーケード通り側はアーケード屋根下が商業、屋根上が集合住宅となり異常な高天井の階高設定となった。それらのずれを中央部に向かってグラデーショナルに融和させ、柱・梁を組んでいた結果、フレームが井桁状に空間に浮遊するスケルトンが現われた。

都市の与条件が生み出したこのスケルトンは、その内側の人の暮らしにとってどのような存在か。これらの柱と梁は、人が気軽に触れられる場所にはあるのだが、その梁の高さが、ある一つの生活機能にジャストフィットするというわけでもない。何か人間の一手間がなければ生活機能とはならない「未完成さ」がある。しかしその未完成さは、ある種、居住者がどう使いたいか、どう暮らしたいかを自由に描くことを誘発し、それを受け入れてくれる余白とも言えそうだ。

空間の設計手法としては、スケルトン×ファニッシュ(構造体×家具)という新しい形式を試みた。スケルトンの「住みこなし」は可能かという挑戦でもある。これまでのスケルトン×インフィルのように、各所を仕上げで満たしていくと、ある特定の用途に規定しやすく、また仕上げの改変は居住者にとっては大がかりな工事だ。一方で、家具程度ならハードルが大きく下がる。DIYや日曜大工の範疇で、手を加えることも、賃貸型の空間として現状復旧することも容易である。事前に精度の高い機能で満ちた空間よりも、むしろ、スケルトンをどのように住みこなしていくのか、住み手に問いかけるような空間を目指したい。一部はじめから設えられた制作家具もあるがすべて脱着可能とし、また、様々な場所に移動可能なハシゴは、この異常な階高を立体的に移動しながら、中間梁に対して、足を浮かせていつもと違う風景で座ってみたり、好きなオブジェを飾るギャラリーにしてみたり、梁上に天板を乗せ即興的なワークスペースとしてみたり、構造体をそのまま使ったり、手をくわえたり、人間と空間の日々の応答の中で、愛着も育まれていくはずだ。

現代の「新しい住人」たちは、「環境」としての躯体からどのような「空間」が展開されていくのだろう。環境に対して人間が機能を発見し続ける、そんな創造に満ちた「未完成な場」を目指した。


(武田清明)

三石邸: ポートフォリオ
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